<あらすじ>
離婚が決まり、今日妻がアパートから出ていく。しかし、いつもと変わらず男は仕事に。妻は男の為に最後の夕飯を準備する。そんな中、男は自身のとある感情に戸惑った。毎日喧嘩をし、冷めきった夫婦関係だったにもかかわらず、妻の夕飯を楽しみにしている自分に気づいたのだ。仕事にもいつもより身が入る。そんな不思議な感覚を持ったまま、妻が好きな「モンブラン」を買って帰宅するのであった。
<登場人物>
男 38歳 工場勤務
ーーーーーーーーーーーーーーー
男、工場の仕事をしている
作業をしながら話す
「今日、何食べたい?」
夫婦なんだから、当たり前の会話のように思うかもしれない
でも、俺にとっては特別だったんです
「今日、何食べたい?」
やっぱり、良い言葉ですよね
そのせいか、いつもより仕事に身が入る
ワクワクしている
俺って意外と単純なんだなと、気づく
いや、ようやく気づいたんです
何言ってんだ、ばかやろう
「今日、何食べたい?」
そう聞かれて頭に浮かぶ料理の数に
積み上げてきた幸せを感じる
食べたいものは決まっていた
でも、他の料理を必死で思い浮かべる
いや、決まってるんですよ
でも頭を巡らせた
大事に、大事に
決めてしまえばそれで終わってしまうようで
悩んでいる振りをしたんです
女々しいですよね
「適当でいい?」
そう聞かれた
適当で良いわけがない
俺は、つくねをレンコンで挟んで、照り焼きにしたやつを食べたいんだ
だから
「つくね、挟んだやつ」と答える
料理名はわからないが、あれが美味いんです
すると
「そんなのでいいの?」と返って来る
その言葉に少しだけムッとしたが
そういえば、「美味い」と言ってやったことはなかったな。と気づく
結局、そういうことなんだよ
今日、あいつは引っ越しの準備を終え
アパートからいなくなる
同棲から数えれば10年だろうか
その生活もついに終わる
結婚してからは喧嘩ばかりで、半年も経たないうちに破綻していた
それなのにどうだ
「今日、何食べたい?」
その一言のおかげで俺の胸は高鳴っている
あんなに嫌いだった仕事も
今日はやり甲斐さえ感じている
(胸を押さえて)…なんだこれ。ダサ
終業のブザーがなる
「よし、帰ろう」
携帯にメールの受信音
画面だけ見て無視する
帰りにケーキを買ってやるんだ
モンブラン。あいつが一番好きだった
携帯にメールの受信音
花も買おうと思ったが、それは何だか大げさだし、そもそも買い方が分からない
ギリギリまで悩んだが、そんなことより支度を急ぐ
携帯にメールの受信音
「定時で帰るの?珍しいねそんなに急いで」
「新しい女でも出来たか?」
そんな嫌味を振り切り、会社を出る
男、歩き出す
携帯にメールの受信音
うるさい
携帯にメールの受信音
うるさいよ、今は勘弁してくれ
急ごう
タクシーを捕まえれば早いが、そこまではいい
その分良いケーキを買ってやろう
絶対にそれが良い
俺がお前を一番良く知っている
好きな音楽
好きなテレビ番組
そして、モンブランが好きなことも
せめてそれだけは分かってほしい
携帯にメールの受信音
ケーキを持って歩く俺は、どう見えるんだろうか
自意識過剰な自分を、馬鹿らしく思う
やっぱり
花買ってやれば良かったな
きっと
喜んだよな
男、足を止める
アパートに着く
息を整える
鍵を開ける
ドアノブを回し、中に入る
そっと扉を閉める
内鍵をゆっくりかける
靴を脱ぐ
靴を揃える
…涙が溢れそうになる
リビングに向かう
男、リビングに入る
リビングには、ラップのかかった料理
ご飯も味噌汁も既によそわれていて
同じようにラップがかかっている
そこに、そっとケーキの箱を置く
何となく部屋を見渡す
「少し寒いな」
声を聞き、隣の部屋からあいつが出てくる
「帰ったなら言ってくれればいいのに」
そりゃないだろう
とりあえずケーキがあることを伝えた
「ありがとう。うれしいな」
あいつの表情は、とても優しかった
柔らかく、穏やかに、目を細めて笑っていた
照れくさかったが
それよりも寂しさが勝った
なぜだろう、あの笑顔は好きじゃない
「食事、温めるね」
あいつはそう言い、支度をはじめる
男、テーブルに着く
女が支度する姿をながめている
徐々に表情が曇っていく
しばらくして、俺はある疑問をぶつける
「ねぇ、俺の分しかないの?」
確信が事実に変わっただけだというのに
俺の心は激しく動揺した
あいつは
食事の支度を終えたら出て行くんだそうです
「なんだよそれ」
準備の手が一瞬止まり
あいつは笑顔で振り返る
「ごめんね。じゃあ、ケーキだけでも食べていくから」
…やはり
この笑顔は好きじゃない
レンジがチンと鳴る
食事の準備ができ、あいつも席に着く
「いただきます」
男、食事をとり始める
引っ越しが進み、すっかり広くなった部屋
今までずいぶんテレビに助けられていたんだな
少しだけ気まずい
親と上手くいっていなかった俺は、二十歳で家を出てそれっきり
未だ結婚したことも報告していない
生きるのに必死だった
マルチに手を出した
それなりに頑張った
就職もせず、それだけ頑張った
結果も出た
その代わり
友達はいなくなった
家族は…最初からいない
残ったのは
借金と
あいつだけ
未開封の督促状が積みあがる玄関
家賃も払えなくなり
最後はあいつの家に転がり込んだ
助けてもらった
だから、この部屋にあった家電はすべてあいつのもの
すっかり広くなった部屋を見渡し
改めて彼女への感謝の思いが溢れた
「ありがとう、やっぱこれが一番美味いよ」
女、その言葉に喜ぶ
…またその笑顔か
さっきもそうだ
喧嘩になる流れだったのに
あの頃なら喧嘩も出来ていたはずなのに
今はずっと優しい顔をしている
ばかやろう
男、食事を終える
「じゃあ、行くね。ケーキご馳走様」
あいつが席を立つ
それに対して俺は
「おう」とだけ返した
男、うつむき、手を強く握る
最後に何か言わなきゃ
「モンブラン一番好きでしょ?またいつか一緒に食べよう」
ばかやろう
俺は一体何を言っているんだ
まだ未練があるみたいじゃないか
俺があいつを鬱陶しいと思って
邪魔者扱いして
それなのに…
そうだ
結局、あいつに言わせてしまった
あいつに決めさせてしまった
最後にモンブラン買ってやったくらいで
偉そうにして
大事なことは全部あいつ任せだったじゃないか
なんてダサいんだ
あんなに世話になったのに
俺を救ってくれたのに
なんて勝手なんだ
なんて………
「私が一番好きなケーキは、ベイクドチーズケーキだよ」
間
それが、あいつが残した最後の言葉だった
男、立ちすくむ
俺も来週にはこのアパートを出る
それまでは一人
(胸を押さえて)…なんだこれ。ダサ
男、部屋を見渡す
写真立てに入った結婚写真を手に取る
「結婚写真どうする?処分する?」
そういわれて少し腹が立ったことを思い出す
いくら掛かったと思っているんだ
勿体なかったな
なけなしのお金だったのに
なんて考える
結婚式のお金はあいつの両親が出し
結婚指輪もあいつの貯金から出した
だからせめて、結婚写真くらいは…と思った
男として…くだらない意地だった
写真立てを元に戻す
食卓の横にある段ボールを見つける
箱を開けると、メモと共に食料が入っている
パックのご飯…
缶詰…グリーンカレー
菓子パン
…明日の朝食
これは…夜の分
5日分の食料が入っている
これも
これも
好きなものばっかり
まるで母親だ
間
声が聞きたいなぁ
男、携帯を出す
メールを確認する
どこかに電話をかける
もしもし
ああ、ごめん
バタバタしてて
うん、もちろん
いや、声が聞きたくて
うん
そうだよ、これで最後
そっか
今日は、ちょっと仕事が残ってて
明日の夜どうかな
迎えに行くよ
いいよ
美味しいもの食べよう
食べたいもの?
…お前が好きなものでいいよ
じゃあ、仕事するよ
うん
また明日
あ、待って
一番好きなケーキ、教えてくれない?
終


