〈あらすじ〉
幼少時代に母を亡くし、ずっと父と2人で暮らしてきた佳代子。その父が亡くなってもうすぐ1年。彼女は、小学4年生のころ住んでいた平屋のアパートの脇にある、小さな田んぼに来ていた。
その田んぼは、夏は水田になり、秋には稲が収穫される。春は沢山のレンゲが咲くので、蜜を吸ったり花飾りを作って遊んだ。冬には近所の子供たちの広場と化し、ボール遊びや鬼ごっこをした。
季節ごとに表情を変える田んぼが、佳代子にとってノルタルジーの象徴であった。それと同時に、幼少期からの父との関係性を悔いる。
当時感じていた1年の長さと、今のそれとを比べ、大人になったことを実感する佳代子。
天国の父に、婚約の報告をするのであった。
〈人物〉
鈴木佳代子 28歳、女。
—————————–
【シーン1 春の田んぼ】
◆BGM「春の曲①」
佳代子、田んぼ前の用水路のへりに座っている
ひとつ、深呼吸
季節の匂いを感じる
なつかしい
私、田んぼが好きなんです
景色も好きですけど、匂いも
記憶って匂いと紐付く、なんて言いますよね
ちょっと昔のことを思い出したくてここに来ました
どのくらい前ですかね…たしか小学校4年生くらいだったと思います
今見ると小さな田んぼですね
隣には私が住んでいたアパートがあったはずなんですが
時の流れを感じますね
大人になってしまいました
立ち上がり、深呼吸
この匂い
レンゲの花の匂いでしょうか
違うかもしれませんが、春の田んぼの思い出はレンゲの花なんです
田んぼにレンゲの花なんて不思議ですか?
どうなんでしょうか。私にとってはそれが普通だったので
春の陽気ってポカポカしていて良いですよね。とはいえ、大人になってから春のポカポカした感じ、あまり経験してない気がします
なんでだろう
明日のことなんて何も考えず、思いっきりポカポカしたいな。たぶん大人になると感じなくなる感覚なんですよ
BGM、フェードアウト
あの頃に帰りたい
◆BGM「春の曲②」
春の田んぼはレンゲ畑
近所の男の子、女の子、名前なんだっけかな
ここで良く遊びました
地べたに座る
レンゲの花で飾りを作るんです
こう、結んでつないで
何が楽しかったんだろう
地べたに座り込んで、花の匂いと、土の匂い。太陽の匂い
女の子は男の子のことが好きで
一生懸命花飾りを作ってあげるんですけど
男の子はミミズに夢中で
捕まえたミミズを私に見せてくるんです
逃げ回る
逃げても逃げても追いかけてきて
たのしくて、たのしくて
ミミズは怖いけど、たのしくて
たくさん笑いました
疲れて、仰向けに倒れこむ
結局2人して息を切らして地べたに倒れこむんですけど、倒れこんでも笑いが止まらなくて
土の匂いも、太陽の匂いも一杯で、まぶしくて
上体を勢いよく起こす
唐突に麦茶のむ?あるよ?なんて言うんです
おかしいですよね
BGM、フェードアウト
起き上がると、いつの間にか女の子はいませんでした
ほろ苦い思い出
あれは初恋でした
—————————–
【シーン2 夏の田んぼ】
◆BGM「夏の曲」
夏は水田になります
この用水路から水を引いていて
良くここに座って涼んでいました
用水路のへりに座り、目を瞑る
風が吹くとキラキラって鳴るんです
…鳴るんですよ。それが涼しくて
一瞬、蝉の声が小さくなったような感覚
キラキラの中にまんまるが出来て、そこにはアメンボがいるんです
アメンボを追い、用水路に沿って歩く
アメンボを追いかけて田んぼのへりを歩くと
隣の大きな田んぼまで水路がつながっていて
別の方向から来る水が合流するんです
パチンと両手を合わせる
ザブン
ザブザブと激しく渦巻いていて
ちょっとした冒険でもしているような気持ちになるんです。不思議ですよね
BGM、フェードアウト
夜になる
◆BGM「蛙の声」
夜は水田の水の音が心地よくて
ちょうど寝室のすぐ横が用水路なんです
毎晩、水の音で眠りました
その場に座る
なんだか懐かしい感覚だった気がします
まだこの世に生まれて10年もたっていないのに
懐かしくて、優しくて
笹のお舟に乗って流れているような
ゆっくり、ゆっくり
母を思い出しました
微かに記憶があるんです、お母さん
ほとんど覚えていないのに、なんでこんなに懐かしい気持ちになったんだろう
BGM、フェードアウト
—————————–
【シーン3 秋の田んぼ】
◆BGM「秋の曲」
夕やけ空
秋の田んぼは何となく怖かった
高く実った稲穂がゆらゆらと揺れるのが怖かった
風が吹くとザワザワと騒ぐ
すると、私の心もザワめくんです
ザワザワ、ザワザワ
色のない風が吹くんです
灰色の空、真っ赤な太陽が沈む
辺りが薄暗くなる
かかしの気配を感じる
不気味に揺れる稲穂に隠れ
かかしが
私を見ている
怖くなり、走って逃げる
振り返ったら追いかけて来そうで走って逃げた
鋭い秋風が背中を押す
ものすごい回転数だ
もつれて転ばないよう、無心で足を出した
何とか逃げきる
立ち止まり、息を切らせる
冷たく乾燥した空気で胸が痛いことに、息を切らしながら気づく
上着を脱いで風を感じると
どこからか、あったかい匂いがする
BGM、フェードアウト
遠くの山に目をやる
もうこんな時間か
今日のご飯はなんだろう
—————————–
【シーン4 冬の田んぼ】
◆BGM「冬の曲」
冬の田んぼは広場になる
稲の切り株がまだ残っていて、少し走りにくい
どこかで藁を燃やしている
乾いた風に乗って煙の匂いがやってきた
あまり好きではなかったけど
冬を感じる、すえた匂い
多分この頃からです
何となく父に気を使うようになりました
理由は良くわかりません
反抗期もなく、父を鬱陶しく思ったこともありません
でもこの頃からです
私は父に気を使うようになりました
きっかけも特にありません
父が私を誘いました
「田んぼで、キャッチボールでもするか」
前日の夜
私は喘息の発作が出ていて
それを父に言えずにいたんです
横になると苦しいので、一晩中起きていました
家の中にいると何となく苦しい気がして
この、用水路のへりに座って夜を過ごしました
喘息で苦しい夜はとても長くて
恐ろしく怖かった
心細かった
朝になると決まって発作はおさまり
安堵と同時に眠気がやってくる
父が私を誘いました
「田んぼで、キャッチボールでもするか」
おさまったとはいえ動けばまた苦しくなる
…言えませんでした
「キャッチボールでもするか」
大体キャッチボールって何ですか
私、女の子なんですけど
父は不器用なんです
父なりのコミュニケーションなんです
早くに母を亡くし、父と娘ふたり
私、初潮が少しだけ早かったんです
それが原因かわかりませんが
今思えば、娘との接し方に悩んでいたのかもしれません
キャッチボールをする
段々と苦しさが増していく
キャッチボールをする父は、何だか嬉しそうで
私は苦しくて
同じだけの笑顔を返すことで精一杯でした
「最近、どうだ」
一球投げるごとに
とりとめのない質問が飛んでくる
「学校では、何して遊んでるんだ」
シール帳が流行っていたけど、どうせ言っても分からないから適当に答えた
「今夜、食べたいものはあるか」
お父さんが作る唐揚げが食べたかった
でも手間がかかることは知っていたので、何でもいいよ、と答える
いや、それどころじゃない
苦しい
苦しくてたまらない
すぐにやめたい
適当に答えているのに
すぐにでもやめたいと思っているのに
父は終始楽しそうで、心が痛かった
BGM、フェードアウト
「佳代子。もしかして、苦しいのか?」
気付かれた
「無理してたのか。そんなこと、何で言わないんだ…」
父は寂しそうな顔をしている
行き場のない感情が、ハッキリ見えた
父を傷つけてしまった
私は、父を傷つけてしまったんです
あのときの顔が、忘れられない
—————————–
【シーン5 時計】
◆BGM「時計の秒針」
時計回りに歩き回る
高校生になると
同じ家に住んでいるのにほとんど顔を合わさなくなりました
意図的にそうしたわけではありません
私がバイトに夢中になったお陰で、生活がすれ違うようになったんです
久しぶりに家の中で顔を合わせると
言葉を探し「こんにちは」と言ってみる。
父も少し気まずそうな顔をする
ふと立ち止まる
いつも、どんな会話してたっけ
BGM、フェードアウト
大学に入ったころ、わたしは父に敬語を使うようになっていた
—————————–
【シーン6 父への報告】
◆BGM「春の曲③」
歳をとるごとに季節のめぐりは早くなり
あっという間に28歳
一人暮らしをはじめて
物理的な距離が生まれて
お父さんとの距離が
少し近づいたような気がしました
話したいこと、報告したいこと
いろいろあったのに
父が亡くなって、もうすぐ1年
レンゲ畑の恋も、アメンボのまんまるも、不気味なかかしも、あのゆったりとした時間はもう帰ってきません
もちろん、父とのキャッチボールも
「あのね、シール帳が流行ってるんだよ」
「お父さんの唐揚げが食べたいな」
あのとき言えていたら
少し未来は違ったのかな
いつかのお正月
珍しく酔っぱらって
私にやたら話しかけてきて
あのときは鬱陶しそうにしちゃったけど
あれ、本当は辛かったんだ
お父さん私と話したかったんだよね
2人きりの、家族だもん
ごめんね
BGM、フェードアウト
—————————–
お父さん
私、結婚することになったよ
終



コメント